(承前)
僕は庭側についた裏門を通された。広い庭だった。いつもベランダから見るよりも広く感じられる。芝は綺麗に刈られ、植木の手入れもきちんとなされていた。壁際から首だけを出していただけだったので今まで気付かなかったけれど、少女は水着姿だった。身体を包み込むその水着からすらっと伸びた肢体はまだあどけなさの残る顔立ちからは想像もつかない程に大人びたものだった。
「ここでそんな格好でずっと立ってて蚊に刺されないの?」
それが僕の口をついた最初の言葉だった。それは或いはやりどころをなくした視線を紛らわす為の言葉だったのかもしれない。
「さあ。今のところ刺された様子はないわね。きっと私の血なんて美味しくないのよ」
「そうなの?」
「それに夏服だと何でもたいして変わらないと思うわ。どれもこれも同じくらい露出するわけだし。違う?」
「そうかもしれない」
その通りなのだ。着ているものが水着だろうが洋服だろうが、或いはどこかの国の民族衣装だったところで露出が多ければ蚊に刺される可能性なんて大差ないのだ。くだらない質問。そんなことは考えればすぐにわかることだ。それは聴くまでもないことなのだ。でも少女は特に気にした様子もなかった。僕はほっとした。くだらない質問をする人間は時に蔑まれるような目で見られる。僕だってそう見ることがある。そうした目で見られることは実に惨めで、情けないものだ。
「ねぇ、座らない?」
「そうだね」
少女に促されるがままに僕は縁側に腰をかけた。
「何か飲む?」
「どっちでもいいけど」
「それじゃあわからないわ。飲むの?飲まないの?」
「じゃあいただくよ」
僕がそう答えると少女は満足げな笑みを浮かべて家の中へと入っていった。
縁側はちょうど日陰になっていて心地が良かった。彼女もここでゆっくりしていたところに僕を見かけたのかと思って自分の家の方を見てみると、僕の家のベランダは植木に遮られて見えなかった。どうやら少女が僕を見つけたのはここからではないらしい。もう少し庭に出れば見えるのかもしれないけれど、それを確認したところで何ら得るものがあるわけでもないので僕は静かに座って少女を待つことにした。
ふと思った。僕はここで何をしてるのだろう。何かを為さねばならないのに何を寄り道しているんだろうといった疑問を抱いたわけではない。何の予定もなければ別に何かやらなければならないこともないのだから。ただ単純に、どうしてただ偶然会っただけのご近所の、しかも名前すら知らない女子高生の家に上がっているのだろう。自分の存在がここにあることが不思議でならなかった。それは答えの出ない種類の疑問だった。とにかく僕はここにいるのだ。現前たる事実として。
少女のことを考える。綺麗な女の子だ。もう少し年をとればもっと綺麗になるだろう。彼女はどうして僕を呼んだのだろう。偶然僕を見かけたから?ただ暇だったから?一種の近所付き合い?以前にも僕のことを見かけたことはあるのだろうか(因みに僕は彼女のことを見たことはない)?名前は?彼女の存在は僕にとって未知なるものであった。何も知らない。いや、辛うじて名字はわかる。沢木。でもそれは彼女を知る上でたいした手がかりになるものではない。結局のところ彼女は全くの他人なのだ。この場所だってそうだ。僕の家から道一つ挟んだだけの距離とはいえ、この庭も、この家も全て、僕にとっては未知の場所なのだ。外観だけならほぼ毎日、それとなくは見ている。けれどもその内部、つまり僕の今いるこの場所は完全に未知の領域・・・・・・だったのだ。つい先程まで。それが幾つかの偶然(きっと一つや二つではないだろうし、意図的に仕組まれたものではないだろう)が重なって僕はここにいるのだ。不思議なものだ。
「おまたせー」
その言葉と共に少女が戻ってくるまでには予想していた以上に時間がかかった。それもその筈だった。彼女は水着を着替えてティーシャツにハーフパンツという服装に着替えていた。髪が濡れた形跡もある。きっと軽くシャワーを浴びてきたのだろう。
「流石にお客さんが来てるのに水着は変かなーってちょっと思って。まあこれも家着だけどね。それとも水着の方が良かった?」
そう言って少女は微笑する。僕もつられて笑う。
「そうだね、水着の方がサービスされてるみたいでいいかもね」
「ま、いやらしー」
道を隔てて話していた時とはまるで違って、テンポの早い会話だった。まるで道の分だけ会話のリズムも縮められたかのようだ。
「レモネードで問題なかった?」
「うん」
「ビールのほうが良かったかなぁ」
「あー、それも悪くないかも」
会話のリズムの変化につられて僕の口振りもまるで仲の良い友達と話すように変化しつつあった。これが彼女が意図的に作り出した空気感によるものだとしたらそれは見事な手前だ。僕は完全に彼女のペースに乗せられているわけなのだから。
「じゃあ取ってくる」
そう言って彼女は腰を上げようとした。
「いいよ、別に。折角持っていてくれたんだし、これ。」
そう僕は彼女を制した。
「そう?」
「そう」
「やっぱり私と同じものがいいってこと?」
「そうだね、お揃いのほうが気分がいい」
僕らは笑う。些細なやり取りが楽しい。
レモネードは冷やりとしていて手に納めるだけで心地がよかった。コップの淵には生のレモンが飾ってある。ささやかながらも気の利いたもてなしだ。少なくともそれは僕を感心させるには十分なもてなしだった。
僕はレモネードに口をつけてそっと少女を眺めた。彼女も同様にしてレモネードを飲んでいた。視線はどこか遠くの方に向けられている。再び沈黙が僕らの空気に流れ込む。相変わらず心地の良い沈黙だ。僕は視線を彼女から外し、自分の居場所を再確認するかのように周囲に泳がせた。先程までと変わらぬ僕にとって未知の場所、彼女の家だ。ただ一つだけ変わっていたことは、僕をここに導いた少女の姿があること。それだけの違いにもかかわらず、一人でこの場所に残された時よりも自分がその場に適した存在のように感じられた。
少女は何か小さな缶のようなものを足で転がしていた。直径十五センチほど、高さ五センチに満たないぐらいの白っぽい物体だ。
「ねぇ」と僕は言った。
「何?」と少女は応えた。
「ここで何してたの?」
「私?何だと思う?」
「質問に質問で返さないでほしいなぁ」
僕はそう少女の声色を少し真似て言った。少女は笑う。
「そうね。じゃあヒントあげるから自分で考えて」
「ヒント?」
「そう、ヒント。でもほとんど答えになっちゃってると思うけどね」
「そうなの?」
「うん。だって、夏に水着ですることなんて限られてるでしょ?」
「…海水浴」
「海なんてないよ」
「知ってる。でもそれとセットですること、日焼け、でしょ」
「正解」
「日陰で、日焼け止めを塗って」
僕がそう、少し押し殺した声で言うと、少女は下から覗き込むように僕を見た。その表情はまるで父親に叱られて許しを請うようなものだった。
「変かな?」
「わからない。大切なのは本人の気分の問題に過ぎないのかもしれないし。それに…」
そこで僕は言葉に詰まった。少女が僕の顔を、先程とは打って変わった喜びの表情で覗き込んできた。その眼は僕が次の言葉を吐き出すことを促していた。でも僕はそれをはぐらかすように微笑んだ。
「それに?」とたまらず彼女は口に出した。
「いや、なんていうか、きっと君は日に焼けた姿よりも今のままの方が似合うんだろうなって思っただけだよ」
「そう。でもあなたがそう謂うのならきっとそうなんだろうね。なんか、そんな気がする」
「わからないけどね。でも白い肌が似合ってるよ」
「ありがと」
そう言って彼女は立ち上がった。家の中へと数歩進み、振り返って僕に一言、短く言った。
「付いて来て」
(続)
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