(承前)
少女の家の前に立ち、インターホンを押した。ピンポーンというありきたりな音が響いた。少女の家に来るのは二度目だったけれど、正門を通るのは初めてだった。またしてもこの場にいる自分のことが不思議に思える。僕はここで何をしているのだろう?
程なくして少女が迎えに来た。どうぞ、と玄関を通される。そこには少女の母親が待っていた。はじめまして、と僕は挨拶をした。
「どうもすみません、娘の家庭教師をお願いしていただけるとかで」と少女の母親は言った。
家庭教師?初耳だった。少女の方を見ると少し申し訳なさそうに俯いていた。
「ええ、まあ家庭教師というほどきっちりしたものかどうかわかりませんが、家も隣ですし、時間は結構ありますので何かわからないところがあれば見てあげる、といった形ですけどね」と僕は適当に言った。
少女が目線をあげて僕の方を見た。笑顔が愛らしい。
「ね。嘘じゃなかったでしょ。それよりこんなところで立ち話しててもしょうがないから上がってよ」
少女はそういうと僕を引っ張って部屋まで連れて行った。
二度目の訪問となった少女の部屋は、相変わらずバランスよく感じられた。不思議と安心感を与えられる感覚。バランスを保つ形而上的な存在は失われていない。確かにそこに存在する。
「ごめんね」と少女は申し訳なさそうに切り出した。
僕はなんでもない、といった形で軽く頭を振った。それに自然と笑顔が付加された。
「お母さんがね、うるさいの。予備校に行けだとか。でも私はああいうところ苦手なの。だって馬鹿みたいじゃない、皆で必死になって小手先の技ばっかり身につけて。勉強ってそういうことじゃないでしょ?私には向いてないのよ、ああいう勉強の仕方って」
正論だ。でも僕は敢えて何も言わなかった。
「迷惑、だよね。ホント、ごめんね」と少女は言った。
僕は何か言おうとして言葉を飲み込んだ。本当のところを言うと何を言おうとしたのか自分でもわからない。僕に何か言うべき言葉があるのかどうかさえわからなかった。でも少女は下唇を軽く噛んで僕の言葉を待っているように見えた。
「うん、別に、構わないよ」と僕は言った。「そりゃ、急に何の前振りもなくあんな形で告げられて驚いたけど、お母さんにも言ったように結構空き時間はあるしね。でも、どれだけ教えたりできるかは知らないよ。君の学力だって知らないし、それどころか名前だって知らない」
「名前」と少女は言った。
「うん、名前」と僕は繰り返した。
少女は少し考えるように間をおいてから言った。
「名前って重要?」
「重要っていうか、あるほうが呼びかける時に便利だと思う」
「でも私たちの会話の中で相手の名前が必要だったことってないわよ」
確かにそうだった。君、あなた、お兄さん。呼び方なんていくらでもある。ただ、なんだかどこかで聞いたことのあるような会話だと思った。僕は少し考えてから言った。
「でもこれから必要になることもあるかもしれない。それとも教えたくない?それならそれで別に構わないけど」
「ううん。名前ぐらいいくらでも教えるわよ。ただなんとなく思っただけ。私、思いついたことをそのまま口にしちゃう癖があるみたいなの」
「そうなんだ」
僕がそう言ったところで沈黙が生まれた。
少女は何か安心したような表情で軽く息をつき、僕に微笑みかけてきた。僕は彼女が名前を告げてくれるものだと思って暫くその様子を伺っていたが、その様子は全くなかった。名前のことなんてすっかり忘れてしまっていたかのようだった。
僕が彼女の言葉を促すように視線を送り続けていると、少女は、何、といった表情で首をかしげた。それを見て僕は笑った。
「何よ。人の顔を見て笑うなんて失礼よ」と少女は言った。
僕は俯いて噛み殺したような笑いを続けた。
「何よー」と少女は非難の声を上げた。
「名前」と僕は短く言った。
「あ。忘れてた。教えて欲しい?」
「どちらかと言えば」
「どうしよっかなー」
「いくらでも教えてくれるんじゃなかったの?」
「そういえばそうだったわね」
少女はそう言いながら笑った。僕もそれにつられて一緒に笑う。少女との会話には、どこか心の暖まるところがあった。肩の力を抜いて、自然体で接することができる。僕はそれを心地よく思った。きっと波長が合うのだ。
その夜、僕らは終始雑談をして過ごした。駄目な家庭教師。結局自分にどれだけ彼女に教えることができるのか分からなかったけれど、彼女自身、それほど家庭教師を必要としているようにも感じられなかった。
それでも僕は少女の(因みに名前はナナだった)家庭教師になることを正式に受諾した。そうすることが当然のように思えたからだ。
(続)
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