春の海辺に一本の桜が咲いた。果かなく散ることを運命付けられた桜だ。
桜から二十メートルほど離れたところから砂浜が広がっていた。不思議な光景だった。
僕は静かに桜の袂を離れ、砂浜の方へと歩を進めた。砂浜と草地の境界線は風で撒き散らされた白砂のため見た目には不明瞭だったが、肌を剥き出しにした足が敏感にその感触の違いを踏み分けた。僕はその境界線上にひっそりと立ち止まった。
「ここが臨界点」
僕は声に出してそう言った。
目を瞑ると全ての感覚が足の裏へと集約されていく。そのまま足の感覚だけを頼りに境界線を辿る。境界線は決して真直ぐではないし、目を瞑った僕は平衡感覚を失い、思うように歩くことが出来なかった。それでも一歩一歩、歩みを確かめながら進み続ける。暫く歩いているとその作業にも慣れ、歩みの速度は徐々に増していく。そして暫く進んだところで再び立ち止まった。閉じられた目の役割をも担った素足が、微妙な感触の変化を感じ取ったからだ。
目を開くと足元には一筋の細い影が射していた。右手には広い砂浜、そしてその先には広大な海が広がっている。左手には気持ちばかりの野原が広がっていた。僕は足元の影を目で辿ってみることにした。陽は僕の左後方から射していた。海側に伸びた影は僕の足元を通過し、砂浜の半ばでその存在を途切らせていた。その存在は僕の影を乗せて必死に海へと身を捩じらせていた。僕はその影を助けたいと思ったけど、何も出来ないことはわかっていた。僕が境界線から離れて、自分の影を使って影自体の長さを補助することは出来ただろうけれど、それでも海に届くことがないことは目に見えていた。それに、僕の影はそんなに強くないのだ。そのことを確認するように自分の影を見つめると、影は僕に語りかけた。
「そう、俺はそんなに強くない。誰かを支えたり助けたり出来るほどの強さは持ち合わせてない。なぜならば俺はお前の影に過ぎないから。お前がもっと強く望む力を持てば俺だってもっと強くいられるのかもしれない。けれど、少なくとも今の俺にはたいした力はないんだ。残念なことだけどな」
僕はひとこと、いいんだ、とだけ言い返して、海を眺めた。そこに果ては見当たらなかった。どこまでも続いているように思えた。
「なあ、勘違いしないでくれよ」と影は言った。「俺は別にお前のことを責めてるわけじゃないんだぜ。お前は精一杯やってるよ。どちらかと言えば俺はお前に感謝してるんだ。お前の影でよかったと思ってる。でもな、時にはやりきれない時だってある。俺だって必死なんだ。どうしようもなくなる時だってある。だから時にはきつい言葉を吐いてしまうこともあるかもしれない。俺が意図しようと、しまいと、お前の琴線に触れてしまうことだってあるかもしれない。でもな、それだって仕方がないんだ。そうなってしまう時だってある。それに、俺にだって少しぐらいお前のことを揶揄する権利ぐらいはある」
僕は黙って頷き、微笑んだ。
「僕も感謝してるよ。君が僕の影でよかった」
その言葉に影は少し照れたようだったけど、何も言葉は返してこなかった。
僕は歩んできた道を振り返ってみた。曲がりくねった境界線。その果てから二十メートルほど先のところで、桜の花弁が舞い散っていた。
僕はまた影と二人で歩み出した。
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