『ミシュレティア』 1-3 感情と旋律(2)

(承前)

「センセ、やっぱり変よね」とその正面の人物が声を発した。
 僕は少し放心するかのようにしてゆっくりとその言葉の意味を咀嚼した。自分が今立たされている世界がどこなのか理解できなかった。読書の世界、思索の世界と経由する間に現実が自分を置いてけぼりにして豹変してしまったかのように感じられた。でもそれが僕の勝手な、周囲の気配に気付けなかったことに対して言い訳付けるための解釈であることに気付くのにはそれほど時間は要さなかった。
「センセって呼ばれてもまだあんまり自分だって実感がないな」
「それはセンセがちゃんと教えようって気がないからでしょ」
「そんなことないよ。ただあまり教える必要がないだけだよ」
「まあなんだっていいわ。あの家に一人でほっとかれるよりセンセが時々来てくれたほうが楽だもの」
 少女はそう言って沈黙した。僕も何を言っていいのかわからなくなって沈黙した。色々と言葉は浮かんできたけれど、そのどれもが今発するに適した言葉には思えなかった。僕は少女を観察することにした。
 暫くそのまま少女を観察した。少女も僕を観察しているようだった。観察するといってもジロジロ穴が開くほど見る訳ではなく、それとなく互いに牽制しあうようにしていた。それがどれほど続いたかわからない。結構長かったようにも思うし、意外と短かったのかもしれない。少女が僕らの観察合戦に終止符を打ってきた。
「人のことジロジロ見ないでよ」
「ジロジロとは見てないよ」
「じゃあとにかく見ないでよ」
「そっちこそ」
 言葉の応酬は僕らの互いを見るという行為を加速させ、僕らは互いを見詰め合っていた。真直ぐ、互いの眼と眼で。そして暫くして僕らは同時に笑い声をあげた。
「ねぇ、センセ、お昼まだでしょ?」と少女は笑いながら言った。
「うん」と僕も笑いながら答えた。
「マスター、いつもの奴二つお願い」
 少女はカウンターに向かって大きな声でそう言った。どうやら僕は知らずに彼女の行きつけの店に来てしまっていたらしい。
 暫くしてテーブルにはルッコラの味の利いたバケットが二つ運ばれてきた。これが中々おいしい。僕らは静かに昼食を済ませたあと、ついでだからといって少女の勉強に付き合った。とはいっても相変わらずそれほど教えることはない。少女が問題を解くのを眺め、時々確認の質問をしてくるのに答えるだけ。そうして二時間ほどが過ぎた。
「センセ、一息つきに散歩にでも行かない?」
 そう促されて僕らは店を出た。
 商店街を僕らの町の反対側に抜け、更に暫く歩いた。はじめは特に何の考えもなく歩いていたのだけれど、思いついてさらに先にある自然公園まで行くことを提案した。少女はその提案を喜んで受け入れた。曰く、自然公園にある池のアヒルを見るのが好きだとか。のどかでいいかもしれない。
 公園に着いた僕らは池の木陰に位置するベンチに腰をかけた。日向に比べると熱気はそれほど酷くはなく、想像していたものに比べれば、快適とさえいえた。僕らは暫く、言葉を発することなく静かに水面を眺め、アヒルを眺めて過ごした。アヒルはゆっくりと水面を横切り、緩やかな波紋を残して行った。
「ライ麦畑」
 暫く沈黙が続いた後、少女はそう短く言った。そのあとには何の言葉も続かない。僕はポケットに差した文庫本を取り出して無言で少女に渡した。少女はそれを受け取り、パラパラとページをめくった。
「本、たくさん持ってたけど、これも読んだ?」
「うん。日本語版だけどね」
「どう思った?」
「嫌いじゃないわ」
「僕は結構好きなんだ。少なくとも誰かが寝る物語じゃない」
「そうね」
 そういうと少女は本を僕に返し、また沈黙の世界に戻って行った。アヒルは相変わらず水面に現れては消える軌跡を描いていた。
「ねぇ、物語の力って信じる?」
 僕がそう言うと、少女は何それ?といった表情で僕の方を見た。僕はそれに笑顔を返して、遠くを見つめた。
「昔々、あるところに、出鱈目の王国がありました。出鱈目の国の王様…王子様かな?とにかく、彼には将来の約束をした綺麗な女性が傍にいました。彼らは幸せな日々を送っていました。でもある日、その女性は忽然と姿を消しました。何の前触れもなく、誰にも何も告げずに。そうして王子様は一人、取り残されてしまいました」
 僕は思いつくままにそう語った。
「王子様は、センセなわけ?」と少女は言った。
「うん、そう」と僕は言った。「王子なんて柄じゃないけどね。でも物語の中では何にだってなれる。そこは作者の自由でしょ?」
「そうね」
 少女はそう言いながらも何か文句でも言いたそうな顔をしていた。でも僕はそれを無視して続けた。
「僕は、人に聞かす物語を創るなんて大それたことは出来ないかもしれない。それでも物語を創ることは出来る。大事なのはそこなんだ。そして物語は…回収してくれるんだ」
「回収?」
「そう。回収。救うって言った方が解りやすいかな?一種の通過儀礼みたいなものなんだ。いろんな事柄はそうして別の形状を得ることで、解放されるんだ。テクスト論って知ってるかな?」
「テクスト論?」
「うん。文学研究とかの方法論の一つなんだけどね、書かれた物は書かれた時点でその作者の元を離れるんだ。そして、読者の手にゆだねられる。ほら、初めて会った時にも話したよね?君が全ての物語を一組以上の男女が出て来て寝るって捉えたみたいなこと」
「全てじゃないわ。センセが今持ってるライ麦畑だって違うでしょ?」
「そうだけど。でも今はそうした細部は重要じゃないから続けてもいいかな?」
「そうね。どうぞ」
「とにかく、そうやって物語は著者の手を離れて人に届く。言い換えるなら、物語は作者から言葉を回収して乖離する。乖離してしまった結果、それはその漂流先で誤解されたり、過剰な取り扱いを受けたりもする。きっと生まれたままの形で人に届くことはないんだと思う。だってそれは人の中に存在する不定形な、曖昧なものが一時的に、仮の姿として結晶化した存在でしかないんだから。本当は姿を現しただけでも奇跡に近い存在なのかもしれない」
「だから私たちはそれぞれに違う形でそれを見てしまうわけね」
「うん。だからそれは危険な存在でもあるんだ。極端な話、むやみやたらに放り出された言葉は時に人を死にすら追いやる。死とまでいかなくても、予想外の感情を引き出してしまうことがあるんだ」
 僕はそう言って少女を見た。少女は必死に言葉を理解しようとしているように見えた。
「なんだか難しいけど、なんとなくは解るわ」と少女は言った。「それってさ、物語に限らない話よね?」
「そうだね」
「ねぇ、ちょっと付き合ってもらえる?」
 少女はそう言うと有無を謂わず一人先に歩み出してしまった。まるで僕の意思などは全く確認する必要などないというのように。そして僕は、いつものことながら彼女に従うほか特に選択肢がないように思えた。世の中はきっとそのように出来ているのだ。

 僕らは電車に乗って移動した。少女は定期での移動だった。僕も定期で乗ったのだけれど、途中から区間外だったので清算する必要があった。少女は先に改札の方へ向かってしまったので僕は取り残されてしまうのではないかと心配した。けれど、少女はちゃんと待っていてくれた。移動する間、僕らは特に何の会話もしなかった。途中、どこに行くのか訊こうと思ったのだけれど、答えてくれないような気がしたので訊くのをやめた。結局その時に言葉を失ってしまったような感じになり、何も話さずに来たのだ。でも決して苦痛ではなかった。少女は少女で何か考え事をしているようだったし、僕も漠然と、何かを考えていた。自分でも何かよくわからない何かを。
 駅を降りてからは少し登り坂だった。少女はすぐそこだからと一言だけ声をかけて、前を歩いた。そして少女の言葉通り、目的地は坂を登りきってすぐのところにあった。学校だ。おそらく少女の通っている場所であり、或いは僕にとっては秘密の花園と呼んでもいいかもしれない場所。校名の刻まれたプレートには女学園の文字が夏の陽射しを受けて煌煌と輝いていた。
 僕は少女がここで普段どのような生活をしているのか想像してみた。でもあまり具体的な映像が思い浮かばなかった。ここが女子高であり、僕とは縁のない場所であることもあるけれど、そのこと以上に、少女と学校はかけ離れた存在であるかのように思えて仕方がなかった。この空間の持つ空気と、少女の持つ空気は相容れないもののように感じられたのだ。まるでスイカと天ぷらのように、一緒に考えると消化不良を起こしてしまいそうな気がした。
 僕がそんなことを考えていると、少女が振り返って早く、と急かした。僕が近づくと小さな声で守衛さんに怪しまれないように堂々と入ってと告げられた。でも僕はどうすれば堂々と見えるのかイマイチわからなかった。考えれば考えるほど自分がコソコソしているように思えてきた。そしてそうしているうちに、そんなことで悩まなくてはいけない自分のことが無性に腹立たしくなった。それが結果として居直りとして表れたのかどうかはわからないけれど、気が付けば難なく守衛小屋を通り抜け、校舎の中に立っていた。
「女子高へようこそ」と少女は振り返って言った。

(続)
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