(承前)
八月も終わりが近づいて来ていた。八月が終わっても暫くは残暑が続きそうだ。秋の足音は全く感じられない。もちろんそういったものは突然、何の予告もなしに訪れるものなのだろうけれど。それでも僕には予感があった。今年の残暑は暫く続く。でもその代わり夏のピークがそれほど厳しくなかったからお相子かな、と勝手な決めつけで納得してみた。
僕はポケットに文庫本を差して外に出かけた。はじめは図書館へ出かけようかと思ったのだけれど、この時期、図書館は高校生で溢れ返っていることを思い出してやめた。それでも家にいるよりも、どこか外で読書をしたいという気分だったのだ。或いは両親が帰ってきて僕の王国の領域が縮小してしまったことも作用したのかもしれない。歴史の中で、本国を追われ、他の領域に新たな領地を求めた数々の王国がそうであったように。
特別どこか当てがあって出かけたわけではなかったので、僕は暫く気の向くままに歩を進めることにした。陽射しが強く、すぐに汗が滲んできた。自然と日陰のある方へと足取りが向かった。更に進むと、少し喉が渇いてきた。裏通りを進んできたのでコンビニも自動販売機も近くに見当たらない。仕方なく大通りの方へと向かった。
大通りに出て初めて気が付いたことに、既に隣駅近くまで来ていた。それまで気付かなかったのは本当に何も考えずに歩いていたからだ。隣駅は家の近所に比べ、大きな商店街がある。都会ほどではないにせよ、ちょっとしたものなら十分ここで間に合う便利な商店街だ。その分人の往来も多い。僕は活気付く街並みを抜け、適当な喫茶店に入ることにした。
それは小さな喫茶店だった。そこを利用するのは初めてだったけど、何の迷いもなくそこに決めた。この街の店はどれも大差ないのだ。特別人気の店もなければ、ボッタリされる店もない。当たりも外れもさほどない街。それは僕が二十年ほどの人生の中で編み出したこの街に対する答えの一つだった。もちろんそれぞれの店に差異がないわけではなく、それぞれに独特の雰囲気を持っている。大手チェーン店のように均一化された店舗が並ぶわけではなく、どちらかといえばどの店の地域密着型の小振りな店舗が立ち並んでいる。或いはこういった店こそが雑誌などで隠れた名店などと取り上げられ、ちやほやされるのかもしれないけれど、取り上げるには数が多すぎるのだ。値段も味も、そして店構えも、一定のレベルの中でそれぞれの特性を持った店が多数立ち並ぶ街なのだ。
とにかく、僕はそうした店の中から一つの喫茶店を選んで入った。それはアンティーク感のある木材を基調とした装飾のなされた喫茶店だった。
僕は奥の席に座り、ブレンドコーヒーを一つ頼んだ。文庫本を取り出し、読み出す前に店内を見回した。落ち着きのあるいい店だ。客の入りはそれなり。少なすぎず、多すぎない。
「悪くない」
僕は声に出してそう言った。誰に言うでもなく、ただの独り言として。なんだか自分が村上春樹の小説の主人公にでもなったような気がした。もともと僕は春樹の登場人物を地で行っている気もしなくはない。あと僕に必要なのは例の殺し文句、「やれやれ」だなと思った。僕は敢えてその言葉を口にしてみようかとも思ったけれど、そうすると自分が失い続ける損なわれた人間になってしまいそうで怖くなった。
僕は一呼吸おいて読書に取り掛かった。サリンジャーの『ライ麦畑でつかまえて』の原書版。一度翻訳版を読んで、いつか原書で読もうと思っていたものだ。一人称で書かれたホールデン少年の叫び、それはきっとサリンジャー自身を少なからず投影した鏡であり、彼自身の言葉で読み通してみたかったのだ。
決して英語が得意というわけではない僕は、原書で読むのに時間がかかってしまう。一つ一つの言葉の意味をとるに当たってもやはり日本語ほどすんなりとは行かない。それでも一度訳書を読んでいたこともあって、何とか読み進めることはできた。とはいっても、一気に読み通すには集中力が足らず、少しずつ読み進めるのがやっとという状態ではあったけれど。
読み出すに当たってしおりを挟んだ箇所から少し前に頁をめくって読み返した。ニューヨークで自らの内で迷子となり、その曖昧なアイデンティティを確立させようとするホールデン少年の試みが生む逆説的な精神的な崩壊。物語の中核であり、非常に繊細な部分であった。続きを読むに当たって物語の位置を再確認するつもりで流し読みしようと思っていたにも拘らず、一字一句注意して読んでしまう。
ようやくしおりの箇所まで辿り着いた頃に注文のコーヒーが届いた。僕の王国で出される出鱈目なコーヒーとは違い、芳しい香りが漂ってきた。暫くその芳香を楽しんでから一口飲み、再び読書の世界へと戻った。
ホールデン少年の回想にはよく二人の女性が登場する。妹のフォービーとかつて近所に住んでいたジェーン・ギャラガー。物語の中で語られるこの二人の女性は、ともに無垢の存在だ。そしてそれはホールデン少年が守ろうとする二人でもある。でも実際のところ、彼が守ろうとしたのはその二人の人物なのだろうか?彼が守ろうとしたのは自分の中の存在としての二人なのではないだろうか?もちろん、どう捉えようとも、明確な答えなど存在しない。サリンジャー自身に訊いたってわからないかもしれない。それが文学だ。
そう考えたところで僕は先日少女に自分で言った言葉を思い出した。
「君の方に原因があるんじゃないかな?」
僕はその言葉を反芻するように口ずさんだ。本当に声に出したかどうかはわからないけれど、ごく小さく、最小限の運動で口もそれに合わせて動かした。
僕は自分の中の何かを守りたいのだろうか?僕はそう自分に問いかけてみた。答えは出ない。守りたいものがたくさんあるようでいて、別に何もないような気もする。わからない。
気が付けば読んだ覚えもないのにページだけが進んでいた。僕は本を読むのを諦めて閉じた。すると、突然正面に見慣れた顔が現れた。
(続)
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